第一回
思想と哲学、ものづくりの源泉にあるものとは
2019年06月21日

作り手の思想にフォーカスを当て、クリエーションの裏側にせまるデザイナーインタビュー企画。

今回特集するのはブランド創成期から取り扱ってきたDEVOA。

異色の経歴を持つデザイナー、西田大介氏のこれまで明かされることのなかったクリエーションに対する思想やその創造力、独自の理論に基づいた作品はどのような形で世に送り出されるのか。

全7回の連載でお送りするデザイナーインタビュー。

第1回の今回はブランドの立ち上げに至る経緯と、自身の経験と教訓から培ってきたDEVOAの哲学の源泉に迫ります。

西田 大介

長崎県出身

スポーツインストラクターを経て2005年、ブランド創設。

自身の経験と知識に基づいたパターンとハイクオリティな物作りが国内外のコアなファッションフリークからの支持を集めている。

"創造の始まりは自分の人生経験を振り返ることにより、自分自身を発見し、ブランドとして昇華させることができたことだ思います。"

--まず、これまでの経歴について教えてください。

これまでレスリングを経験し、スポーツインストラクターなどの仕事をし、 その後に数年アパレル製品の小売を経験しましたが、アパレル製品を制作する側になるとは自分自身でも想像してなく、不思議な体験だと今でも思っています。

色々な出会いと転機、ハプニングが重なって今を生きています。

スポーツインストラクターは5~6年ほど経験させていただきました。

その後3年ほど、愛知県にあるファッション製品小売でもお世話になりました。

洋服屋での経験も生かされていますが、最初のきっかけはあるパタンナーと出会ったことでした。

彼自身も当時は別のブランドのものや企画のものを作っていたりとか、会社に雇われて仕事をされていました。

そのパタンナーと出会って話をした時に、例えばマルタンマルジェラの考え方、いろんな洋服の考え方、あとは美術や思想だったり、写真家のデュシャンの事、モノ作りのことも含めて、そのプロセスや制作までの哲学についてなど、とにかくいろんなことを沢山話をした記憶があります。

ただ、その時は一緒に商品作りをすることまでは考えていませんでした。

--ものづくりの道に進もうと思ったきっかけはなんだったんですか?

20代後半に差し掛かり、家族のことや将来を考えて転職先も決まっていた頃でした。

この頃にどういう運命のいたずらかわかりませんが転機が訪れたと思います。

その時に色々な出会いだったり、自分の考えがあって、仕事を辞めてからそこに入るまでのクーリング期間みたいな時に、将来について色々考えながら遊びで小物作りなんかをやっていました。

初めはブランドを立ち上げるという感覚ではなく、もの作りをしている方々から勉強する機会があった事が発端だと感じています。

その時毎日パタンナーと会って、一緒にいろんなものを作っているうちに、やっぱりものづくりが好きだと再認識し、少しづつ哲学を構築することになったと思います。

--そこでこの道に進もうと思ったわけですね。

結局それから再就職先には断りを入れました。

色々試していくうちに制作する方々との出会いに助けられ、レストランやカフェなどで(自ら作った商品の)販売を始めることができたことが大きな決断とチャンスだったと思います。

それから2年間ほど、レストランやカフェなどで自ら手売りで販売しながら、自分の人生を振り返りつつ、何を考え、どういった信念を持つデザイナーとして、今後の方向性が変わらない哲学の構築を考えていきました。

何よりも5年、10年、20年と続けていくにあたって一番大事なものはデザインよりも根底にある考え方であり変わらない哲学だと考えました。

その必要性を感じ、哲学を練り上げることについて多くの時間を費やしました。

その変わらない哲学を練り上げるために、名古屋で2年間ずっと実験をしていました。

--実験というと?

実験という言葉は適切かわかりませんが、単純に自分自身で作った服がお客さんから魅力的に見えて、対価を払ってもらえる価値のある商品なのかを知りたかった部分が大きいです。

実際にはお店に了承を得て、カフェやレストランのお客様に直接声をかけて販売をさせていただいていました。

今考えるとよく出来たなと笑い話になります。

もちろん商品の説明も併せてしていましたし、試着もしていただくのですが、購入者はどこを気に入って購入してくれたか、など、色々質問しながら販売していました。

購入していただいた方々は年齢も職業もバラバラです。

自分が作った商品がどのような方々に気に入られ、どの程度自分の考えを理解して対価を支払っていただけたのか、など、販売するにあたっての根本的なことも再確認したかった部分が沢山ありました。

その2年間の間に縫製処理、生地の制作と合わせて色々と学び、東京へ出るきっかけを作っていました。

--2年間の実験を経て、自身の創作の哲学や考え方を築いていったのでしょうか。

DEVOAの哲学の根源は自分の人生で一番濃く、時間を割いたスポーツにあります。

いわゆる立体的な作りとされるパターンを作っているとは思いますが、大切な事はただ立体的なだけではなく、スポーツ医学的な考えと体幹バランスを重視して制作している事にあります。

私の創造の始まりは、自分の人生経験を振り返ることにより、自分自身を見つめ直し、ブランドとして昇華させることができた事だと思います。

私が洋服を創造する上で他のデザイナーと何が違い、どういったアプローチにより洋服を創る事が大切なのかを常に考えています。

それ以外で、思想や哲学の部分の考え方で一番私に影響があった人物としては解剖学者であるアンドレアス・ヴェサリウス(※)です。

彼が残した版画は、実際に解剖して人体を考察しているにもかかわらず、筋肉構造はヴェサリウスによってデザインされている部分が多く、版画内の人体の立ち姿や創造に多くのデザイン的要素が存在します。

しかも未だに何故デザインされたかは解明されていない部分も面白いと思います。

6年前に今のアトリエに移る際、パリの蚤の市でヴェサリウスの版画がバラ売りでしたが偶然販売されており、8枚だけですが私の手元に来ることになりました。

ヴェサリウスを想い7~8年経った時に私の手元に版画が手に入った時に思ったことは、パリで展示会をしていて自分のブランドに影響を与えた人物の版画が手に入る事が不思議な経験であり、子供の頃に宝物を見つけた時と同じような気分でした。

※アンドレアス・ヴェサリウス

ブリュッセル出身の解剖学者、医師。

人体解剖で最も影響力のある本、“De humani corporis fabrica”(人体の構造)の著者。現代人体解剖の創始者といわれる。

--ブランドとしての哲学や考え方を築くとともに、服づくりについても学んでいったんですね。

私は服飾学校などで学んだ経験が全くありません。

どういう構造で服が出来上がっているかは生地屋、パタンナー、縫製工場の方々、全てが先生でした。

生地に関しては2次卸ぐらいからしか買える手段を知りませんでしたから、タウンページで調べて機屋さんへ直接アポイントをとって伺っていました。

オリジナル生地を作りたいと思っても生産ロットがあり、私の作る量では到底消化できない反数でした。

縫製や裁断、仕上げなどに関しては昔テーラーを営んでおられたお直し屋さんで芯地の使い方、パターン分量の取り方など、そこでお手伝いをさせていただきながら、洋服を構築する上での最低限のルールやその意味を教えていただきました。

靴制作だけは制作のルールや細かいことなど教えていただかなければ理解できない部分が 多々有り、浅草の職人さんに1年ほど直接ご指導をいただき学んだことがあります。

--最初のコレクションでは店舗選びにこだわったそうですが

東京に来てからはセールスエージェントの業務をお手伝いさせていただきながら、自分のブランドも並行して制作していました。

全国のセレクトショップへ営業に行ったり、東京コレクションのお手伝いなどを経験していく中で、手当たり次第にお店へDMを送ったり、アポイントを取ったりして、エージェントとしての営業活動をやっていたのですが、自分にとってはその行為がすごく安っぽく宣伝しているようにしか考えられなかったのです。

もちろんお世話になっていたセールスエージェント会社の方針なので、その当時は指示されるがままに働いていました。

ですが、自分がもし自分のブランドの営業する場合は、できるだけブランドと取引先との関係を濃いチームワークで構築していく必要があると常々考えていました。

ブランドの性格も含め、沢山の取引先ではなく深い関係性が築ける、対等の立場で助け合えるチームづくりが何より大切だと考えていました。

一番最初に恵比寿で展示会を開催した時は、セールスエージェントで全国を回っていた時に、このオーナーさんと一緒に仕事ができたらと思う店舗だけの為に13枚のDMを書かせていただき、アポイントをお願いしました。

結果的に11件の取引先が決まり、今に至ります。

--そういう関係性を築いていくことに重点を置いていたわけですね。

当時は精一杯考えた上で、自分にとっては一番近道で理にかなった方法であり、 私自身の性格とブランドの性格を考えると適切な判断と行動だったと思います。

立ち上げ当初は知り合いなど色々と買ってくれたり応援してくれましたが、何よりも継続することが目標でしたのでバイヤー様に対しても深い繋がりを求めていました。

--最初の展示会から1年後にはパリで発表されたんですね。

そうです。

2009-10AWシーズンに最初にパリで発表した時に、individual senimentsと一緒に展示会をさせていただく事になりました。

ちなみにindividual sentimentsの洋子さんとは恵比寿での立ち上げからデビュー時期が全く一緒なんです。私自身、ものづくり自体はブランド立ち上げる2年前からやっていましたが、正式にブランドとしてスタートして展示会を開催したのは2008-09AWシーズンからでした。

彼女はイタリアのブランドでの経験があり、私とは全く初期スキルに差がありすぎましたので、まさか1年後一緒にパリで展示会をするとまでは想像もしていませんでした。

--パリで発表してみて、当時は何か手応えはありましたか?

最初の2シーズンぐらいまではバイヤーに見てもらい、オーダーをくれるのですが、帰国してからキャンセルになることが沢山あり、一時は人間不信になるほど困惑しながら必死にパリにしがみついている状況でした。

最初は手応えなど全くなく、パリで展示会を継続する事の方を必死に考えていたように思います。

ですが、自分がもし自分のブランドの営業する場合は、できるだけブランドと取引先との関係を濃いチームワークで構築していく必要があると常々考えていました。

ブランドの性格も含め、沢山の取引先ではなく深い関係性が築ける、対等の立場で助け合えるチームづくりが何より大切だと考えていました。

当時は同じスペースでindividual sentimentsと一緒に展示させていただいていました。

individual sentimentsの方は海外ブランドでの経験があり、注目度も高く、たくさんのバイヤーに囲まれていて羨ましさと恥ずかしさで何度も逃げ出したいような時間を過ごした思い出があります。

パリで展示会をスタートしてから2年目までは、バイヤーさんに全く見向きもされない状態でした。

3シーズン目に10件くらいオーダーをいただいた頃から少しづつ、海外での展示会を実感してきました。

individual sentimentsとは4シーズン一緒に展示させていただきましたが、彼女と一緒にやった4回の中で1度も彼女のオーダーを超える事は出来ませんでした。

今でも二人で全然関係ない話や、仕事の話、プライベートのこと、お互いのことも電話で話したり、現状の情報交換などさせていただいたりします。

私の思いだけかもしれませんが、洋子さんは良きライバルであり大切な方です。

--そういった苦難や挫折を乗り越えて今があるんですね。

挫折は今も常にあります。

例えば自分が思っていたような生地ができなかった時、商品に自信があってもオーダーに繋がらなかった時、海外の場合は商品を作ったものの、単純に支払いをしてくれない時が10年間で5件ほどあります。

挫折や失敗などはどんな仕事でもある事です。

ですので常にそれに対して対応して、必死で前に進むしかないと自分に言い聞かせています。

海外での販売について特に思うことは、確実な商売なんて本当にないですが、その見極めはすごく大切だと思います。

今後はお店自体も増えるよりも減る速度の方が早いと思いますので、ブランドとSHOPが同じ方向性を向いたチームとしての結束がより大切になってくると思います。

その中で自分自身も生き残るものづくりを継続することには危機感を持って製作に挑んでいます。

-幼少の頃からものづくりに触れる機会があった環境で育ったとのことですが。

実家は長崎県、佐世保市で、そこで祖父はテーラーを営んでいました。

私が生まれる前のことです。

足踏みミシンを見よう見まねでちょこちょこやったりとか、そういう環境に囲まれて育ちましたが服に関しても祖父、祖母からも学ぶ程の機会は無かったのです。

母は家業を継ぐことなく草月流・生花の講師として作業工場を生花と茶道、着物の着付け教室に改装し営んでいました。

幼少の時は足踏みミシンや花器や陶磁器などに触ったり、実際に草月流生け花や茶道を経験しましたがそういう環境下にあったというのは、今思い返してみると、自分に与えた影響は大きかったのかもしれません。

実際には生花の講師を目指したこともないですし、中学からずっとスポーツの方をやっていたので、自分としては影響がないのかなと思っていたのですが、自分がこの業界へ入ってから気づいたことや振り返ることは沢山あります。

東京で展示会などを行うようになり、起業して5年ぐらい経った頃に母から祖父のハサミを2本と祖父がテーラーに付けていたブランドタグをもらった時は、卒業証書をもらって今から就職するような気分になった事を今でも覚えています。

---いただいたハサミは実際にお祖父様が使ってらっしゃったものですか?

貰ったものは60年前くらい前に2本とも使っていたものです。

一番最後の方に使っていたもので、2本あり砥ぎ直して今でも使っています。

世代を超えて私が使っていることは不思議な感覚ではありますが、大切にしていきたいと思います。

---お母様から譲り受けた時に心境の変化はありましたか?

不思議な感覚でした。

自分では必死で制作していたので考えたこともなかったのですが、どこか運命を感じるものがありました。

実はブランドを始めるにあたって、35才までに事業として成り立たない場合は辞めようと決めて挑んでいました。

なぜその年なのかというと、自分が精神学を勉強していた時に、何かの本で運命数を調べていた時があって、たまたまある多重人格者が書き残した「その年の生まれ人が、その人生において何歳の時に何の出来事が起こることが記された表」があり、その表から導き出した時に自分が35才のところに印があり、直感的に35才の時までに、と決めた覚えがあります。

この道に進む前は、飯が食えなくて自分が柔道整復師になるか、カイロプラクティックの先生になるのか、家族に紹介してもらった靴下屋さんのニッターとして働いて安定した給料を得ることを第一に考えていた部分もありました。

ある程度の業績が見込めない場合は継続できないと自分自身に言い聞かせていた事もあり33才の時にハサミを受け取った時には、これまで自分自身が生きてきた環境や経験が走馬灯のように駆け巡り、より深く考えさせられる大きな経験となりました。

それまでは自分の過去など一切考えたこともなかったですし、あんまり人に言う機会もなく生きてきました。

自分のブランドを制作するにあたって自分の過去や経験を掘り下げるという作業はどんなデザイナーにも必ずある思うのですが、私自身にとっては特にこの時に、色々なことを考えさせられた経験の一つです。

祖父や母の事も含めて心境の変化は特にありませんでしたが、自分の覚悟がより強固なものに変わったようには思います。